エッセイ: 2012年4月アーカイブ

もう先週のことだけれど、中牟礼さんの九州ツアーに、最後の二日間だけ帯同して、九州を味わってみた。じつは、四国や島根県までは行っているのに、九州にはまだ上陸していなかったのだ。
福岡には、高橋ボスさんがいて、空港に着くなり、料亭に来いと言われ、高級なお昼の会席をご馳走になった。夜の打ち上げは、もつ鍋の店で、他に鯨料理。
ニンニクと油。カッカする。
翌日は、特急つばめで長崎に向かい、着くとすぐ中華街で待っているとバンドから電話があり、特大の皿うどんを食べ、それからチェックインしてグラバー園を観光。
夜の打ち上げは、思案橋のイタリアンで、全部店のおごりとかの贅沢なオードブルとシャンパン。私は飲めないので、食べ専門。それからみんな、3次会まで行ったそうだ。私は2次会で退散したけれど、二件目に行ったバー、アジールがすごく良かった。のぶ、とみんなに呼ばれている私より少し年上のマスターが、素敵に楽しい。

食べてばかりで、ぜんぜんお腹が空かない二泊三日。
しかも、何を食べても素晴らしく美味しい二泊三日。
福岡のごっつい感じや勢い、長崎の風光明媚、それぞれの土地に暮らす人たちから立ちのぼる、郷土があることの落ち着きと愛情なんかを肌で感じた。

東京は仕事をするには素晴らしい場所だけれど、時々地方に旅行して人間の形に触れないと、生きることの本来の姿を忘れてしまうかも知れないな、と感じた。
人には適正な生活のサイズがある。
音楽で仕事をしようとすれば、東京にいる方が有利だけれど、それは人としての自分の形を曖昧にしてしまうことでもある。
忙しく移動して、コストと段取り優先に動いていると、いつの間にか人としての輪郭がつるんとしていく。抵抗のない、面白くもない形に。
だから、軽やかに仕事をしていることと背中合わせにある危険を、いつも感じていた方が良い。


子どもの頃は、美味しいものは最後までとっておいた。
まず嫌いなものを片付けてから、お食事の余韻をその味で締めよう、という魂胆。
それは、食べ物だけではなくて他の様々な場面に対しても応用されており、一番読みたい漫画は最後まで取っておいたし、一番好きな遊びも最後の機会を待った。

無邪気な時分から、歌ったり本を読んだりばかり好きだったせいか、親に「やることやってから遊べ」といつも叱られていた。やることとは、宿題とか、予習とか、ピアノの練習とか、風呂にはいるとか、家事手伝いとかで、加えて明日までの準備万端整えてから、やっと遊ぶように、という指示だったようだ。
けれど、たいてい親が満足するまで準備していると夜中になってしまい、ついには何も出来ないうちにもう遅いから寝るように、と命令されるのだった。

しかし、その態度は完全に習慣化し、ずーーーっと長い間続いて、子育て中などは、しなくてはならないことをするだけで寝る時間もないような毎日が続くと、好きなことは何もしないですますという時代が続いた。
すると私は、自分がしたいことがあまり分からなくなってしまった。
まず、しなくてはならないことを全部するので、それで一日が終わった。
以上、であった。

良く躾けられた人物である。
家事万端、子育て万端、仕事万端、ほぼ完璧であった。
でも、私は辛かったようだ。

それがいつの間にか、そういえば最近は好きなものから食べてるな、と驚く。
しかし、たったこれだけのことができるようになるまで、結構練習した感もある。
自分優先が難しいなんて、そんなのバカじゃん、という人がたくさんいるかも知れないが、私のような人は、かなりの数いるはずなのである。

親は、世間様に迷惑をかけない人格を育てようとしたかも知れず、あるいは、親自身が理想とする人格を投影しようとしたかも知れず、しかし、感度の良い私はそれを拒否ることもなく、せっせと頑張り、頑張っても頑張ってもそれで充分と感じられない、苦しい半生を送ってしまった。

でも、選べなかったようだ。
これって問題かもと感じて心理学を学んだりもしたが、分かっても習慣からはなかなか抜け出せないものだ。

それがこの頃、急激に緩くなれたのは、たまたま、私を締め付けていると感じていた周囲の方が先に崩壊してくれたためだ。
そして病気もした。

心の中では、なんだ、そういうことだったの、つまり虚言ね、じゃあ、止めます。
となり。
ああ、ラクだこと。
に落ち着いた。

これが、現在のラクの処方。

好きなものから食べ、嫌なことは後回しにし、行きたいところに行って、楽しんでいる。
それができるのは、キリキリと、引き絞りに絞った、かのしんどい日々に溜めた経験とか理解とかの蓄積のお陰なので、何が良かったとか悪かったとかは、全然言えない。

歌えて、文章が書けて、教えられて、レーベルを運営して、会社をやって、子どもが三人も立派に育ち、友だちがわんさといて、それは、辛かった時期と天秤にかけて、どうよ、ラクしたかったのかよ、と言われたら、本音でまあ、これで良かったんじゃないのか、と納得してしまう。
かなりの程度無理に近かったが、選んだ方法はそれほど間違っていなかったみたいだ。

とりあえず、還暦前に「美味しいものから食べ始める」態度を取り戻せたことは素晴らしい。
皆様ありがとう。

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