人は度々、「率直な人」を好きになる。
自分の心の中にある、言いたくても言えない本音を、さらっと口にされると、とても気分が良くなるからだ。
そしてこう思う。
「自分のごとく、周囲を気にして言いたいことも言えない臆病者には、こういうリーダーが望ましいのだ」と。
やがて、一定の人気やら支持を集めて「率直」な人は首長になったりするのだ。
しかし、率直であるということと、思想的に肯定できることとは、全く別のことだ。
率直な人は、彼の人格全体を受け入れて頂いたと思うあまりに、何でも思った通りに発言してしまう。そして「馬脚を現した」と評され、バッシングを受けることとなる。
この数十年で、世界中でもっとも激変したのは「個人」についての考え方だ。
長い歴史の中では、人と動物の区別がない時代もあり、自分のテリトリーの外の人々を家畜のように奴隷化した時代もあった。
そして女性は、長いこと多くの場所で、出産だけをする存在に据え置くために、教育を受けることも自己主張することも許されないで生きてきた。
人種や性別で差別されてきた歴史は、差別される側の人々には良く理解できている問題だ。足を踏まれたら痛いから。
しかし、踏んでいる側の人は、注意されないと分からないらしい。
差別意識というものは、1人の中で、様々なジャンルに及ぶので、よっぽど注意しないと気づくことができない。
その意識がどこで培われるかと言えば、家庭であったり学校であったりと、ごく身近な大人からもたらされる情報に依る。それを自覚していればこそ人は自分を正すために読書したり、外側の世界の様々な知見の人に遭ったりするよう心がけるのではないか。
政治家になって、多くの人の支持を受けると、人格全体を支持されたと思ってしまうのだろうか。「考え方」についての詳細な検分が為されないまま、ぺらぺらと浅はかな判断を述べてしまう。それは、世間に出現した当初に人気を博した「率直な物言い」という方法に違いない。それは個人的には気分の良くなる行動である。言いたいことを言い募って喝采を博す。
失言というのは、公的な場でそのような洗練を欠いた「個人」が出てしまうことだ。個人に戻った時、人は様々な趣味思考、時には嗜癖とでも呼びたいような性向を持つものだ。それは、非難されるべきものではない。完璧に清潔で政治的に正しい人格などこの世に存在しないから。けれど、点検は必要だ。
率直な物言いをする人を見て溜飲が下がる人は、気づかないでいるかもしれないが、周囲と共同できるよう、自己点検怠りない面を持つ。それは、良識とか常識と言われるものだ。ただし、維持するのは自分にとってなかなかの負荷でもあり、誰かが代わりに本音を叫んでくれれば、一時的なカタルシスになる。テレビには、そのためのタレントがたくさんいる。毒舌タレントは、綱渡りのように、バッシングすれすれの線を渡る。
タレントは良いよ、と思う。お笑いの人々は本来のトリックスターだ。
けれど、政治家についてはどうなんだろう。
どれほど日本人の民意が高く、お手本になる事柄の多い国であったとしても、首を傾げたくなるような知性、理性の政治家を支持し続けている。
これ。海外からはどう見えているのかな。
イタリアやフランスなど、ラテン系の人々は、女好きを首長にする傾向があるけど...。
日本人は、「困った政治家でもしょうがないや」と思いながら「自分たちだけはちゃんとやろう」と決意しているようだという分析を読んだことがある。それはとても腑に落ちた。
なぜなら昔から、どうしようもない父ちゃんを「まあ、良いところあるから」とお目こぼしして、しっかり家庭を維持し子どもを教育したお母さんたちが、日本を作ってきたような気もするから。