日記: 2013年3月アーカイブ

一昨日、早く家に帰ってテレビをつけたら、「みんなが聴きたい歌謡曲」みたいな番組をやっていて、昔のヒット曲がいっぱい流れた。
今の私の耳や目で見ると、歌い方とか、上手さがかつてとは較べものにならないくらい良く分かって、ついついずーっと見てしまった。

昔の方が上手かった歌手はいっぱいいる。
今も活躍しているけれど、くどくなりすぎたり、体力的に落ちてきたり。
ものすごく上手いと思っていた人でも、体調が悪い時の歌はがんばりが利かなくなっていたな。

そして、演歌とか歌謡曲の歌手で昔のスターっぽい人たちのトークがまた興味深い。
「えー、私はスターですから、何しろ、スターですから」的な。

はたして「自分はスターなのだ」という佇まいは、どのようにして醸成され、受け継がれ、また発揮されるのか。
その手本は、綿々と続く歌舞伎役者とか、映画スターの系譜なんだろうな。

昭和28年から放映が始まったテレビに映ってみると、歌手たちはきっと、それまでは想像もつかないほど多くの大衆に知られてしまうことになった。
まさに前代未聞の事態。
必然、ヒット曲を出すと、誰ひとりに対しても「スター」でいなくてはならなかった。

やがて反動が来て、フォーク歌手なんかで「テレビに出ない」主義の人たちが出て来る。
テレビ向きのスターの佇まいを要求されてはたまらん、と感じる人々。
野外ステージでジーンズで歌う人たち。

演歌の人たちは、今でも衣装も込みで評価される。
派手な衣装と装置とバックの踊りなんかも含めて。
そして本人も「歌に入り込んで」演じる。
歌の前にお芝居をやったり。
台詞入りの難しい歌を歌ったり。
すごいな。
総合芸術だ。

スターには、ふたつのタイプがある。
ひとつは、「私もまたその人のようでありたい」と人々に思わせるタイプ。
もうひとつは「そんな物はこの世に無かったはずだから、存在すること自体が凄くて、観たい聴きたい」と憧れられるタイプ。
その有り様によって姿も佇まいも変わる。
佇まいをセレクトするのか、先に楽曲の種類をセレクトするのか、うーむ。

それにしても、「私はスターなんですよ」と信じている人々の凄さには適わない。
滑稽に感じる人もいるだろうとは思うが、でも、やっぱりそういう人たちの歌には説得力がある。

いちいち面白がって観て、たまに歌ったりしていたら、夫が「俺、今日出た歌手の半分くらいバックの仕事してるな」と言っておりました。
渥美二郎のデビューコンサートは、北千住の公民館みたいところで、最後の曲の前に客席の最後部から作曲家の遠藤実氏が走って来てステージに上がり、いきなり指揮をした件。
中条きよしの中野サンプラザ公演ではお客が少なくてビビったとか。
テレサ・テンと行った東南アジアツアーの音楽ディレクターがアメリカ人で、テレサは英語のポップスもガンガン歌ったのだ、とか。
名前は出せないけれど、お酒・他で壊れている数人の歌手のこととか。
まさに、昭和芸能史の一端を聞いたのでした。

昭和は面白かったよね。
クリシェというのは、慣用句という意味らしい。
良くやる手、みたいなことかな。
音楽だと、コード進行に用いたりする。

昔のスティーヴィー・ワンダーを聴いていると、何ひとつもクリシェではないことに感心する。
コード進行も、バッキングの構成も、曲の構成も、イントロもアウトロも、何かそれまでの「こういうもんで、ひとつよろしく」、という行き方を全然導入していない。
きっと、何となく楽器に触っているうちにいい感じのフレーズが始まったので、そのまま進めて行くうちに曲の骨格ができ、あるいは曲の肉付けができ、それを発展させ、保存しておいてさらに付け加えたり、時には引き算したりして「それでしかない物」が出来上がる。

ありがちな進行とか、馴染みやすいサウンドとかではなくて、そのとき初めて生まれたものをそのまま壊さずに育てる。

テレビで見た、仏像の絵に取り組んでいる高名な画家が、「描きすぎないようにしなくてはならないのです。筆が走りすぎると絵が駄目になる」様なことを言っていた。ぎこちないとか、迷い迷いとか描いている時の方が、後で力が出る、とか。

歌っていて、すらすら上手く歌える時、自分にシラケることがある。それがなぜなのか分からなかったのだが、多分、楽器でいう手癖とか、言い換えれば、技巧的なクリシェに頼ってしまったからだろうと思う。それがなぜいけないのか、理屈では全く分からないのだが、気分として、どこか狡いことしているような、後ろめたい気持ちになる。チャレンジが無いというか、気が抜けているというか、テンションに直面していない感じ。
直面していて瞬時のセレクトで出たフレーズと、馴れで出たフレーズとは、同じ音列でも必然性やスリルが別の物のようなんである。

若い頃に毎日のようにバーやクラブの営業仕事をしていた時に、他のことを考えながら歌えていたことがあって、凄く嫌だったのを覚えている。ルーティンの怖さ。

何をする時も、クリシェじゃない方法で、とか、慣れていてもルーティンにならないようにと、心のどこかで点検している。

ただし、ルーティンというのは、別の面では重要な価値を持っていて、集中したい仕事があるときは、衣食住など生活の細々に関してはルーティンにした方が良い。同じ服を着て、同じ物を食べて、同じ道を歩く、とか。リスク管理ということかも知れないが。

そして、気力を尽くして、仕事に関しては直面し続ける。
いつも新しく、未知のものとして。
経験値は今からを展開するために使う。
未知の明日、私はどうするべきか、それを考えるのが醍醐味みたいだ。

絵のこと

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高校生の頃に絵描きになりたい人たち何人かと友達だった。
私自身は絵が苦手だと思っていた。
どこかのびのび描けない子どもだった。

東京に来てから、沖縄出身のヤスジくんという絵描きと知り合った。
彼から、描いてみなよと勧められた。

私「絵は描かないよ」
ヤ「なんで」
私「下手だから」
ヤ「形で描こうとするからだよ、光の濃淡で描いてみ」

で、その言葉を信じてやってみて、何となく描けた気になった。
このアドバイスは、絵だけでなく色々なことに役立っている。
ひとつの方法を信じないこと。
あるいは、アプローチの視点を変えるということ。
できないと思い込んでいることには、その思い込みに至る原因がある。
的確、または適応性のあるサジェストを頂くと、目から鱗が落ちる。

それで、しばらくの間、面白く絵を描いていた。
苦手意識が少し減った。

今も時々、絵を描いている。
子供たちが中学高校で使った絵の具が残っていて、捨てるに忍びなかったので、スケッチブックだけ気に入ったものを買い込んで休みの日に描いてみる。

4冊目くらいに入ったが、見返すと、始めてからしばらくの頃のが一番良い。
楽しい気持ちが溢れている。
それらの絵をライブのフライヤーやブログのバナーに使っている。

最近のは、少し低迷気味。
デザインする人に気を使っているためかと思う。
素人なんだから気を使う、なんてのは馬鹿げているけれど。
そのほんの少しの躊躇が、すぐ画面に出るということが驚きだ。
表現というものは、自分に素直でないと、すぐ行き詰まるんだな。

生物としての自分は、だから、もっと自分の身体のことや感情についても詳しくなるべきなんだろう。快不快や、元気かどうか、など。

絵を描いていると、知識も無く、技術も下手なために、気づかされることが色々ある。初心者であって、不自由である、ということが大切なのだ。
子どもみたいな気持ちで、ただ楽しみのためだけに取り組むこと。
それが大事。

この冬は、本当に寒かった。
故郷の北海道では、ブリザードのために数人の方が無くなったほど。
東京も、久々のしっかりした冬。

昨日、リハーサルがあって立川方面の知人宅にお邪魔したら、ウッドデッキのベランダに椅子テーブルが出してあり、そこで存分にひなたぼっこができた。庭にはヨモギが萌え出て、クロッカスも花盛り。「あー、幸せだ」と心から思った。

陽射しは暖かく、辺りはしんと静か。時折軽トラで通りかかるこの辺の地主のケンちゃんに手を振りながら、半睡の午後。

このところ、冬の間は活動を半減させている。遠くまで出かけたり、電車に乗る機会を減らすのだ。グループのレッスンもお休み。できるだけインフルエンザや風邪を広げないよう気をつける。それもこれも私とみんなの喉のため。

とは言え、春には花粉でコンディションが悪くなる。声を出してみるたび、声帯もアレルギーを起こしているのが分かる。だましだまし春を乗り切らねば。

でも、明るくなって暖かくなると、心が弾む。
北海道にいた頃は、根雪が溶けて半年ぶりに長靴ではなく普通の靴に履き替える日が、一大イベントだった。私たちは普通の靴を「短靴」と呼んでた。雪が消えて、舗装面や土が見えた時、そしてその部分が主体となり、雪に覆われた所が部分となった日、私たちは張り切って下駄箱の「短靴」を取り出し、忘れていた感覚を取り戻すように足を入れたのだ。雪とは異なった、足下の感覚。堅く、萌え立つ生命の香りがする地面を感じて、深く息を吸い、暖かくなる季節を歓迎して心の底から微笑んだ。

季節感というのは、厳しい暑さ寒さの合間、息抜きのような時節に、深い印象とともに受け取られるものみたいだ。身体に心地よい日には、自然が私の味方のように感じられる。そして、前向きに「何か」をしたくなってくる。
Jazz Vocal Cafeを再開して、新しい参加者も交えて発声の勉強をした。
これまで歌ってきた体験、生徒さんたちにリサーチしたこと、専門家向けのセミナーなどで集積したあれこれについて、ポイントを出しながら網羅して行く。

教える、ということはやってみるとどこまで行っても完成しないし、止まることが無い。
その都度、その時に持っている最高の知識や方法論を伝授するのだが、根本は同一ながら、その行為に導くための表現や、やり方は一回ごとに変わって行く。

自分の進歩なんて、もうこの年になるとほとんどないも同然なのだろうが、そういう時に「教える」という行為がどれほど頼みになるか知れない。
何もしていない間にも、心のどこかで、あるいは無意識の底で、より良く伝えたいという「欲」が醸成され続けている。
生徒さんたちを前にして、どうにかして上手になって頂こうと励む時、その「欲」のエッセンスみたいなものが全面にワーツと出て来る。
それは、ライブだけしている時には出てこないものなのだ。
ライブのときは、メンバー同士の化学変化みたいなことは起こるけれど、自分の中の醸成されたものがにじみ出して来る、という感じではない。
もっと、瞬間的で、脊髄反射的な作用だ。

しばらく病気で療養されていた指揮者の小沢征爾さんが、指揮を休んでいる間も若い音楽家を指導していたという記事を読んでとても納得する。
どんなマエストロも、教えたがりである。それは、自分の中に育つ伝えたいものが、指揮という表現だけでは消化しきれないからではないだろうか。

演奏は、一過性のものだ。過ぎたことに対して、あれこれ考えても仕様が無い。けれど、あれこれ言わずに済ますためには、そこに至るまでの掛け値の無い工夫努力が必要なのだ。工夫努力が無いと、何をやってもつまらなくなる。意味が無い感じがする。つまり、その一瞬に向けての飽くなき「欲」が活性していないと、つまらなくなる。

それで、日々楽譜を作ったり、色々なキーで歌ってみたり、コード・チェンジを試みたり、オリジナルに取り組んだり、発声について工夫したり、調べてみたり、良いアーティストを聴きに出かけたり、と色々やる。

そのことは、頑張ってやっているというより、一日のほとんどの時間をこれらのことに費やすために自分に都合の良い時間の割り振りを編み出しているような感じだ。

教える時には、分かったと思うことを伝えてみて、実践してみてもらって、有効か否かを確認しつつ、改善しつつ、工夫しつつ、諦めずに続ける。

身体を楽器にして行く方法論は、どこまで行っても難しい。何となく、武道に一番近いかも知れないと思う。
武道は、年齢が進むとその体力に見合った術が次々身に付いて行くらしい。若い体力には無い、別の次元の「強さ」というものが身に付いて来るらしい。それが、歌の場合にも実現できはしないかと、このところ何となく考えている。自分が年を取って行くことと、歌がどうなって行くのかをじっと観察しながら進んで行くみたいだ。

なぜこうも本が好きなのだろうか。
気分が晴れない時、逆に気分のいい時、割り切れない時、勉学への意欲が湧く日、とにかく何かと理由を付けて書店に立ち寄る。そして数冊手に取り...。

買った端から読む。
全く進まないものは積んで、進むものは読み通して、そうして本がどんどん溜まる。

私以上に本をたくさん読む人は大勢いるだろう。
何しろ、職業が出版や研究関係だと、読むのが仕事だ。
そういった方達が、蔵書を持ち寄って図書館的なものを作ったり、ブックカフェにしたり、交換会を開いたりしているらしい。

これまで、音楽の仲間はどっさりできたが、本読みの仲間はまだ作っていないなぁ。
FBを見ていると、読んだ本の感想をUPする方もいる。
そこで探しても良いのかな、と思うが、本も音楽と一緒で、好みのエリア合致が凄く難しい。それをうまく見せていたのがNHK BSの「週間ブックレビュー」だったよね。

大規模書店に行って、あの棚を埋め尽くす本の種類を見れば、それだけで一生かかっても自分にフィットした本すら読破はできないと予測がつく。
さらに検索をかけてみて、既に絶版在庫無しの本がその数倍あることを見て取れば、この世に見知らぬ名著がどれほどあるかと、そぞろ気になる。読まないで死んでも良いのか、無念じゃ。

本読みの仲間はどうやって集えば良いのだろうか。
書店のカルチャー教室かなんかに行ってみれば良いのだろうか。
あるいは、そういう嗜好の人々が集まる店を見つければいいのだろうか。

と、ふと思いついて、今週はそちらのリサーチなどをしてみようと思う。


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