音楽の最近のブログ記事

自分の生い立ちや境遇について考えすぎるときは、たいてい迷いがある。
上手くいっていない感というか。
これが絶対に素晴らしいはずだと、確信の持てるものを出せていないとき、心は右往左往する。

ジャズを歌うということに、大分戸惑っていた。
歌い始めた頃の愛、それらの音楽がとても好きという想いは、少しも減っていないのだ。
それでも、ライブでお客様の前で歌うとなったとき、違和感があった。

それは言葉の問題。
音として聴く音楽はたくさんあり、海外の歌を聴くのに馴れていれば、サウンドやリズム感、歌手の人となりやムードだけで充分満足する。
詞の内容に踏み込まないままで、感動することもできる。

けれど、私の手の中にあるものだけで何かを表現しようとして、その品数の少なさに戸惑っていた。
いや、きっと品数は多いのだ。
ただ、それらを料理し直して提供するその手間に躊躇していた。

クリシェから離れると、たくさんの指示とリハーサルが必要になる。
私がお願いして、快く、あるいは渋々でも、楽しくつるんでくれる人はいるだろうか?

いざやってみたら意外にすんなりと運ぶのかも知れない。
多分、必要なのは勇気だけだ。

誰とどんなことをしたいのか、ずーっと考えている。
惰性にならないように、お仕事にならないように。
予想では、はっきりとした形にするまで、数年かかる。
けれど、今更と思ってはならない。
今分かったのだから、今から始める。

それを成し遂げたら、私はとても満足する。
そして、幸福な人生だったと、自信を持って言えるようになるのだから。
演奏するときの自分の在り方について、遅ればせながら解った気がすることがある。
とてもシンプルで、言葉にしてしまえば全く当たり前なことなのだが。
「語り合う」ということ。
ともに演奏する人々とお話しをするように耳を傾け、私の想いを届ける。
そのためには、事前に楽曲についてよく考え、捉えて、自分の方針を持っておく必要がある。
歌手はバンドではフロントなのだから、 こちらの方針がクリアに出ない限り、全体もそこから進むことはできない。

曲に関しての基本的な理解とアレンジの意図、そしてそれらを反映する歌。
それらがあって初めて演奏が成り立つ。
バンマスがいることの重要性。
歌は必ずいつもバンマスの立場で、その曲にどのような情景を見ているのか、それについて肯定的なのかそれとも異議を唱えたいのか、喜びか悲しみか、怒りか訴えかを持たなくてはならない。
どの曲でも、歌い始めるときの心持ちには多くの可能性があり、自分の引き出しを探しまくる必要がある。まったく、楽しさばかりでは音楽にならない。

歌の神髄は歌詞に有り、それをどのように咀嚼するかにかかっている。
ジャズの場合、英語がハードルを上げてくれるが、純粋に「発語」と「音韻」の美しさ、面白さを楽しむ側面もある。ジャズのリズムは英語由来だから。
歌詞の意味など分からねど、その言語の持つムードを聴き、ひたり、楽しむ道もあるのだ。
ラテン系の歌など特に、スペイン語やポルトガル語でしか楽しめない楽曲は多い。

それほどまでに、言葉と近しくある歌は、楽器のインプロビゼイションをそのまま採り入れなくても充分すぎる情報量がある。
これを信じるか信じないかで、歌手の進む道は色々変わってくる。
ポップスやロックのシンガーは、ジャズシンガーのように楽器のプレイヤーに引け目を感じてはいない。それどころか、バンドを従えて威風堂々としている。
なぜなら、彼ら彼女らには「歌詞」があるのだ。歌詞あってこそのオリジナリティ。

ジャズの歌い手は、インプロをやる暇が無いほど、歌詞を大切にしても良いのではないか。
ダバダバやっている時間が惜しい。
もちろん、しっかりとダバダバを組み込んだアレンジがなされ、それこそが音楽的に効果をもたらすならそれはそれで良いのだが、変奏の可能性を大きく備えた楽器と対称の力を持つものは、人の声がもつ説得力と歌詞だ。

歌手は、歌が持つ力を信じる努力をすべきだ。
信じた上で、プレイヤーたちとお話をしないと。
ジャズであっても、歌には無二の力があるのだ。
唯一言葉を持つ楽器としての「歌」の力を、心から信じた歌い手だけが、自信を携えて、堂々とバンドの前に立てるようになる。

ZoolooZ売りたい!!

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ZoolooZは、私が作ったユニットだ。
夫とその仲間のドラム宮崎まさひろ、私が歌を始めた頃一緒にやっていたギターの松下誠の3人と、ジャズの友達ギターの加藤崇之を引き合わせ、一度音合わせをしてみてからそれぞれのオリジナルを持ち寄った。
松下誠は、作曲アレンジで仕事をしていて、歌も歌う。現在は、徳永英明のバックバンドにいて、メジャー方面で活躍している。
加藤と夫も曲を持ってきたので、全部で10曲、それをヘッドアレンジしながらレコーディングした。
声をダビングしたり、お遊びで私の情けない歌唱も1曲入っている。
昨日、久しぶりに聴いてみると、このアルバムとっても良い。
勢いとか、好奇心とか、友情とか、とにかく楽しんでいる感が横溢。
それぞれが、持てる力を出し切っているし、互いにインスパイアされてもいる。
楽曲はシンプルで、そこから発生するイメージの広がり方も、人間的。

松下誠はWikiにページがあるのだが、そこに、ZoolooZを結成したと書かれている。
誰かが書いてくれたのね。ありがとう。
しかし、このバンドは、ただの2回しかライブをやっていない。
レコ初で吉祥寺のMANDA-LA2をやり、その一年後に加藤ブッキングで合羽橋のなってるハウスをやっただけだ。惜しい。しかし、メンバーは誰も進んでブッキングしようとしない。仕方ない、私がやるか...。

見た感じも、孫のいるおじさんたちが変にサイケである。
フェス向き。
誰か支持して。
ミュージャンの皆様が、八代亜紀さんのニューヨークジャズライブについて色々言っている。
ヘレン・メリルをゲストに迎えての様子が、テレビで放映されたらしい。
私は見ていないが、見た人の感想は「恥ずかしかった」である。
ひとつには、歌がジャズになっていないこと。
別のことでは、MCや佇まいが世界基準でないこと、らしい。
日本にいる時と同様に、「てへペロ」をやってしまったようだ。
ある世代の人々は、女性の価値基準ということを「可愛げ、どちらかと言えば無知、意味なく愛嬌が良い、偉ぶらない」などに置いている。
そういう国内向け「受け人格」を丸出しにしたらしい。
見ていないから想像でしかないが。

そして、ジャズ、である。
ミュージシャンならジャズは一朝一夕には歌えないでしょ、と分かっている。
リズムも英語も発声も、なぞる程度でジャズと言われてもねぇ、である。
ジャズは「楽曲のジャンルのこと」ではないから。
しばしば取り上げられる楽曲は「スタンダード」と呼ばれているだけで、米国ではポピュラーに於ける「クラシック」と呼んでいる。
当然、日々新しいものはいくらでも生まれており、いつもジャズという観念のクリエィションが試みられている。

しかし、ジャズ歌うのが流行っているのかもしれない。
とりあえずスタンタードで、自由にアレンジしたりフェイクしたりするのは楽しい。
カラオケじゃつまらない、と思う人たちにはとても良い。
だからと言って、プロの別ジャンルの歌手が軽くやっちゃいけないと思う。
数ヶ月の練習ではジャズはできない。
私はたまにしかライブをやらないけれど、それでも結構命懸けという気がしている。
時間がかかる、たくさん練習する、ピアノや理論のことも勉強する、英語も勉強する。
本当に歌うとなると、クラシックくらい大変なのだ。

専門的なことなので、一般にその内実をアピールできないのが辛い。
曲を覚えて歌うところから、楽曲として消化する過程、そして内面化するまで、その違いをアピールするのはなかなか大変。
そのアピールをやる人がいなかったから、お手軽に「ジャズ歌います」という人が注目されてしまったりするのだろう。
どうやったら伝えることができるのかな。
ジャズ音楽の自己アピール。
やらないとまずいな。
ジャズ・ボーカルという言葉を聞くと、どんなことを連想するものでしょうか?
美人歌手、気怠い、ハスキー、お酒などかな。
日本のジャズボーカルは、これらを顕在させられる歌手を求めていたのかも知れない。
ジュリー・ロンドン的な。
でも、当の女性歌手たちは、そういう傾向を軽蔑してきた。
もう少し、真剣に音楽をしたいと考えていたのですよ。

「ジャズ」という言葉ひとつでも、ものすごく幅がある。
その「幅」がある、と言うことについてすら、一般には認知されている感じはしないが。

そう言えば最近、発祥の地アメリカで、ジャズの名唱ベスト50みたいのをやっていた。
ほとんどを占めたのは、ビリー・ホリディ、エラ・フィッツジェラルド、サラ・ヴォーン、ニーナ・シモンだった。カーメン・マクレーが1曲も入らなかったのは、何かの陰謀だろうか? 他には、サッチモ、ナット・キング・コール、シナトラあたり。

何をジャズと思うかは、最初にジャズと触れ合った年代にもよる。
今ジャズを聴く人々の歴史は、戦後の進駐軍から始まっている。
米軍基地があちこちにできて、そこで兵隊さんたちが遊ぶ酒場ができて、日本人でジャズを演奏できる人が求められた。その音楽は、長く娯楽に対する我慢を強いられて来た日本国民にも大歓迎されて、ちょっとでも楽器が弾ければ仕事は山のようにあったらしい。毎日、東京駅にトラックが何台も来て、楽器を弾ける人を調達してはあちこちのキャンプに向かったという話だ。

その後は、大学のジャズ研がジャズメンの揺籃となる。
私が大学生だった頃、モダンジャズやフリージャズ、加えてブラジルもの、フュージョン、さらにR&B、ソウルが花盛りとなった。
ジャズ研のメンバーたちは、コンテストや交流会で知り合いとなり、上手い人同士がユニットとなってPit innの朝の部、昼の部に出演、そこで目をかけられて次第に上級バンドに引き抜かれて行った。

現在のジャズ界にいる方々は、ほとんど大学のジャズ研か、高校までについたプロの先生に勧められて留学した人々。今では音大でもジャズを教えるようになったから、技術がとてもしっかりしている。

さて、そこでボーカルなのだが。
ボーカルだけ、何となく活躍エリアが違う感じがする。
もちろん、ジャズ研出身者が多いとは思うけれど、日々の演奏場所がボーカル専用みたいな風になっている。セッションも、ボーカルセッションが別になっていたり。
つまり、ボーカルと演奏ユニットでは少し方向性が異なるみたいな気がするのだ。

ユニットで活動すると考えると、バンドの個性を出すためにオリジナルが多くなったり、あるいはアレンジメントしやすいナンバーに偏って、ジャズ・ボーカルの範囲に括られていたスタンダードからどんどん離れていく感じもする。

私は、当初からスタンダードとフュージョン系を両立していた上に、教える中で日本の曲にも取り組んだから、選曲はユニットのメンバーの個性によって色々にして来た。
ジャズは、曲のジャンルや種類というより、自由度や即興性という演奏の方法論で括られるべきだ、という理解をしてもいた。

けれど最近、ジャズを教えるなら4Beatを教えないとまずいだろう、と思い直している。
4Beatと2BeatとSlowの乗り方。
ビートこそが、教えておかなくてはならない最優先事項だ。

トニー・ベネットのデュエットシリーズには、ジャンルを問わず、名の知れた若い歌い手がたくさん参加しているが、若くても意外なほどジャズのビートがこなれている人がいる反面、「あれまぁ」と心配するほど乗れていない人もいた。その歌手は、記録映像の方には残っているが、CDには収録されていなかったり...。なるほどね。

ジャズはやはりどこまで行っても4Beatであり、スゥイングだ。
ビッグバンドのノリ、コンボのノリ、楽器とデュエットするノリ、全てに於いてビートを基本に据えた歌い様がある。そのことをボーカル講師として伝えられる人材が、ひょっとすると余り残っていないのかも知れないと思いついた。
スゥイングにも、歌手それぞれの掴み方や個性があっていいのだけれど、最近、ジャズを新しいものにしようとするあまり、軽視された部分がスゥイングではなかろうか。

8Beat、16Beatと、ビートが細かくなると、歌詞の歌い様は難しくなる。けれど、4Beatでは別の部分が難しい。バックのビートに乗るだけでは駄目で、バンドより先に、自分からドライブ感を出さなくてはならない。Slowの時はなおさら、どのようなリズム感、あるいは乗り方でフレーズを組み立てているかをしっかり打ち出せないと、バンドとのコミュニケーションが図れない。

スンダード・ジャズはシンプルだが、リズム、とくにダウンビートとアップビート、3連の理解や体感、音感、ハーモニー感など、音楽的な基礎力が問われる。楽曲の良さで糊塗できない、あっさりした素材しか無いものを凄腕で料理しなくてはならない音楽だ。
そこのところをしっかり教え、守らねば、と思い直している。
そのことだけを丁寧にやって歌手人生を終えても良いくらいに、もう一度、ジャズだなと。

もしかすると、上手い具合に肚が据わったかも知れない気分。

詞を診て下さい

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最近蒲団内作詞が盛り上がっており、昨日プリントして五線紙とともにファイルに挟み込み、作曲の準備をした。

たとえば、
「そんなとこにしゃがんで恨めしそうに見るなよ」
で始まる『女々しい』という詞。

または、
「とにかく最初に過激をかますと、後が楽」
で始まる『後が楽』という詞。

中身はご妄想にお任せするとして、良さそうでしょ。
これらの身もふたもない歌詞群を美しいメロディーに乗せてみたいと思っています。

他には、ロマンチックな恋の歌?もあり。

「古い酒は捨てて旅に出ようよ
 好きだと信じていたのはただの習慣
 三度続くと永遠に、四度となると未来まで」
 
 言葉の内容と曲が乖離した果てに見えるものを求めて、わたしの休日的日常は続いて行くようです。

歌えると教えるはおなじことではないが、縁あって22歳くらいからずっと歌を教えている。その間に、ピアノが少し上達し、楽譜が山ほど溜まり、パソコンで楽譜制作ができるようになり、理論が少し分かり、音声学が少し分かり、心理学が少し分かるようになった。

人の演奏を注意深く聴くようになった。
雑に演奏しないよう気をつける気持ちになった。
色々な人に音楽を好きになってほしいと心から思うようになった。
上手い下手ではなく、楽しむこと、打ち込むことこそが大切だと思うようになった。

音楽の世界にも、スポーツと同様、点数をつけたり、競争したりする場面が多々ある。
受験、コンテスト、オーディション、大会...。
上手い方が気分がいいのだろうけれど、その先に行くともっと上手い人がいる。
そして、勝ち負けを追っているうちに、心から楽しんで歌い、聴くことを忘れたりする。

教える中には、その人を幸せにする願いもこもる。
レッスン時間の半分くらい、悩み相談をするときもある。
世間話でほぐすときもある。
誰しも、歌う以前に生活しているのだ。
スタジオに入ったからと言って、すぐには気持ちが切り替わらないほど大変な時期もある。

コンスタントに、そこに私がいる、ということも大切だと思う。
どんな大変な一週間、一ヶ月であったとしても、私が変わらず同じ場所で同じような顔で待っていれば、少しは楽しいときのことを思い出して頂けるかな、と思う。

そのために、色々なことを工夫してきた。
私自身が大変だった時を思い返し、その時に役立ったことを探したり。
そして、時が過ぎ行くことも忘れずに。
私自身だけでなく生徒みんなのために、少しでも広く技術や知識を学ぶこと。

誰かのために精を出すのは、私の幸福を支えるものでもあると分かる。
ツィッターで2種類のTLを作っている。
ひとつは音楽系、ひとつは作家・評論家系。
ふたつのTLの比較が面白いのは言うまでもないけれど、そこからたびたび良い情報がゲットできる。「良い」というくくりには、私が思いもつかなかった「現在」の状況を伝えてくれるがものが含まれる。それこそ、私の仕事や音楽業界にとってびっくりすることだったりもする。

びっくりのひとつは、小中学生にとって、音楽は特にお金を払って聴くものでは無くなってきた、という件。webの中に落ちている音源を、そのままiphonで聴いているとか。彼らにとっては音質などどうでも良いものである、というのだ。そして、生の楽器と打ち込みの音の区別がつかない。音で楽器が判別できない、という件。

もちろん、音楽の微細を聞き取るには訓練や経験が必要で、誰でもできることではないと思う。それにしても、電子楽器と生楽器の区別がどうでも良いことになるとしたら、この先音楽はどうなって行くのだろうか。

出版の世界も似たように変化してきた。私はちょうど、その渦中にいた。はじめは原稿用紙に手書き、家にはFAXも無かったから、近所の知り合いの作家さんに借りていた。
それがワープロ専用機になってフロッピーディスクでMS-DOS変換とかをやらされ、次いでパソコンを買わされてソフトを色々覚えさせられ、その頃、編集やデザインもデジタルのスピードに合わせたスケジュールで動くようになった。

webのコンテンツが多彩になると、画像や動画付きで提供される情報が溢れ、それまで必須だった実用書類もあらかた必要なくなり、様々なジャンルで置き換わりが起きている。

音楽も、いよいよそれらと同じく、置き換わって行く分野が出てきたということだろう。
私が気になるのは、ジャズのこと。ジャズは、デジタルには置き換わりそうにない。ライブがまず何より大事で、そのアーカイブとしてCDがある。けれど、私が関わったこの数年ですら、ショップの棚が半減している。では、配信が良いのかと言えば、それほどでもない。つまり、ライブ会場での手売りが突出して好成績なのだ。

目の前で聴いて感動し、その音を思い出すためにもCDを手元に置きたいと感じてくれるのだろう。ミュージシャンにサインをもらい、握手して近しくなるのも楽しい。1作を1年から2年かけて売るとして、1000〜1500枚が程よい数字。しかしこの数は、書籍の初版の1/3程度でしかない。

ジャズとクラシックは、音楽業界の「基礎研究」部門だ。科学なら、生活に必需でない研究に公費が充てられ、維持される。けれど、音楽の場合はそうも行かない。基礎研究部門は業界の底を支え、各部門に汎用性のある人材を輩出するけれど、そこに価値を見出す慧眼はなかなか無い。どこまで行っても、音楽に対価を支払ってくれるのはファンであり、生徒たちでしかない。

こういった状況の中で、現在の変化を見て、会社をどう回すのが良いのか、日々考えている。かつてなら巨大なマーケットを想定して、嘘ごまかしでも一発当てるという考え方もできたが、マーケットは細分化されすぎて、インフォメーションひとつやるのも難しい。細分したマーケットを各所から集めて、「ちりつも」的な認知度アップを試みるしかない。それは、なかなか骨が折れるし、根気のいる仕事だ。さらに困難なのは、それをやっても費用対効果が見込めないこと。費用をかけただけの伸びは見込めず、マイナスを阻止するだけ、という感じ。

それでも会社をやる意義はあるか否か。
ここで悩むのは、何と何を天秤にかけているか、自分でも時々分からなくなるという点。
私の生活や仕事のやりがい、関わるミュージシャンたちの活動の充実、日本ジャズ界の質の維持、音楽そのものへの使命感などなど。
言葉にして挙げてみると照れるような大上段だが、心の中ではこういうものたちが、それぞれ居場所を求めて自己主張している。
私が止めても、大局的には特にどうということはないのだろうが(面白いアルバムの数が減るくらいで)何年もかけて積み上げてきたものは大事にしたいとも思っている。
止めるのは一瞬でできることだし。

その揺れる気持ち。
つまり、体力的にも気力でも、今まで通りは少し無理かもと思うこの頃。
何を残し、何を削るかしばしば考えている。
時代の変化を読むべきか。それとも、私はアナログ時代から続くこの時代に生きた人として、変化なんか読まんよ、と言い続けるべきか。
しばらく悩みが続くかも知れない。




「どこまで行っても人なんだよ」
あるミュージシャンがつくづくのように呟く。

「まあ、そうだね」
と言ってしまう。
実際、音楽は人の中にある。
演奏家の出音は、その人の中にあるリズムや技術や理解以上にはならない。
あまけに、演奏1曲の中に全てがあるとも言えるし、ほとんど出ない、せいぜいがその人の中の数パーセントだ、とも言える。

歌を教える時、その人の技術を育てるフィジカル訓練の部分と、音楽や楽曲に対する向かい方、捉え方や理解の仕方、楽しみ方を育てるメンタルな部分とがある。
そのふたつが、いつも追いかけっこをしている。
技術が成長し、できることが増えると、なぜか人はその先の未知の部分を理想とするようになる。
そしてその未知の部分がないと、進歩が望めない。
人は必ず、自分がまだできていない、理想とするものの可能性の方を見ながら練習するようなのだ。
その「理想」がどこから来るかと言えば、いつも耳にしている素晴らしい演奏家たちのアーカイブだったり、ライブだったり。

人がこれほど素晴らしい表現をできるのだという事実に打たれて、その一端をこの身体で実現してみたいと欲望する。
欲望しながら次に何をするかと言えば、自分を知る。
今できること、やらなくてはならないこと、追求して可能性のあること、残念ながら不可能そうなこと、意欲の有無、そして環境など。
生きるための仕事や家事をこなしながら、家族や友人との付き合いをこなしながら、どこかで確実に実現したことが増えるのを感じ、充実する。

もちろん、不全感や欲求不満はいつもある。
けれど、それを含めて、何とかしてここを突破してやろうという意欲で元気を出す。
ひとりの音楽の中には、そうして積み上げる全てがある。
練習、心の整理、馴れや自信。それらが全て出る。
全て出るとは言い方を変えれば、あるものしか出ないということでもある。

ユニットの演奏は、ひとりずつがその曲の未来、同じ行方を見ながら進んで行くものだ。
横一列になったり、少しでこぼこしたり、けれど、その曲の行方を前方にひたと見据えながら、落っこちないように、気を抜かないように全員で進んで行くものだ。

その演奏時の緊張感が好きだ。
仲間がいて、皆に期待し、耳をそばだてながら、一緒に前を見て進んで行く。
必ず、惜しげなく持ってるものを全て出しながら、一緒に進んで行く。

終わると、もっとできたはずだった、と思ったりする。
最近はほとんど無くなったけれど、修行中はその連続。
最近の不覚は、暗譜の完成度が主になってきたけれど、それでも、アンサンブルする仲間とのバランスについては多く反省する。
反省してすぐ次。
後悔はできない。
その時間は惜しい。

ライブで出たことは、それまで準備したことの全てだ。
ライブの度に、できたこと不満なことが溜まり、それがなぜか意識しない心の底の方で変化していく。
その意識できない部分が積み重なることでしか、本当の意味で音楽が良くはならない。
不思議だけれど、「力を抜く」とか「リラックスする」ということひとつとっても、そこに至るまでとても時間がかかるものだ。
それでも、理想とすれば少しずつでも必ず近づく。
意識しないと変わらない。
変わるためにははじめに、アイディアを持たなくてはならないようなのだ。
そのアイディアの質がまた、大切なようだ。

ミュージシャンひとりひとりの、そのアイディアの精錬方法を見ている。
全員、本当に異なっている。
つまりそのアイディアこそがオリジナル。
人は真実、多様なんだと知る。
同じ日本人でもこんなに多様なんだ、と感心する。
そして世界の広さを改めて思い出す。

作品の中の情緒

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ホロヴィッツがモーツァルトのたしか23番のコンチェルトを演奏するドキュメンタリーがあって、第2楽章を「これはシチリアーナなんだ」と、何度も言う場面がある。
シチリアーナとは、「シチリア風」という意味で、シチリア島独特のセンチメンタルが感じられる曲のことだ。郷愁というか、懐かしさというか。ポルトガル語ならサウダージのような。

音楽史によれば、音楽は他意の無い音遊びから始まって、次第に音の連なりを利用して、そこに何らかの意味を込めようとする欲求に利用されるようになる。教会音楽は神の顕在を示そうとしたし、吟遊詩人はメロディに乗せてロマンスを語った。オペラは当然物語そのものであり、その行き過ぎに辟易した作曲家たちは、一方で何の意味も込めない、ただ純正な構成感を求めて交響曲を考案した。

しかし、いずれにしてもそれらには人の感情や自然に訴える、あるいは挑戦的に感情をかき混ぜる何らかの操作意図がある。操作という言葉が悪ければ、演出それとも編集。

人の頭脳は放っておくと加熱するし、妄想する。いずれ、その程度が極端であれば解説なしに理解させることはできなくなる。戦略的な解説を付加するか、編集して理解しやすくするか、薄める演出をするかである。

クラシックやジャズは、音楽のほとんどの要素を含むために、作曲家や演奏家に過大な要求をする。その余り、ついには編集の収拾をつけられなくなる事態を引き寄せがちだ。
聴く側の感じで言えば、作曲家や演奏家の意識が、ごく私的な、悪く言えば自己満足の次元に集まってしまっているかのような印象。
自己満足と言っても、音を紡ぐ当事者だけでなく、「ワタシ」には正しく理解できる、と宣言する「コア」なファンというものも存在して、あたかもカルト的な一種訪問しがたい世界に閉じてしまう。

例えば、コンセプチュアルアートなども似ている。事前に予備知識として、何かをどこかまで積み上げないと理解できない作品群。何をどこまで積み上げるべきかについては、部外者から見ると、それこそ神経衰弱ゲームのカードのように伏せられているので、いきなり作品を突きつけられると呆然とし、ルールを知らないでいる自分を持て余したりする。

アートがそこまで来たのは、教養主義のダブルバインド、二律背反があるせいだろう。異端でありながら、特権という、どちらに転ぶのが良いのか判断しがたい局面。アートを鑑賞する場面で、その思いは人を宙吊りにする。

背を向けて去る人と、果敢に入り込む人がいて、それぞれ、好きだから嫌いだからという理由だけでなく、その教養主義に配慮する必要性を天秤にかけている。そしてその行為を決断する時には、恐らくこれまでの記憶を手がかりにしている。「ワタシ」は、どこかで接した、何かを良く知っていたあの魅力的なあるいは誘惑的な人に、この後なりたいのか否か。

音楽に於ける情緒や物語に対しても、近づいた人々のとる態度はまちまちで、その片鱗が見えた途端に後ずさりし、「純粋音楽」こそ正しいと叫びながら走り去る人もある。彼らの記憶では、自分の感情を出すのはスマートでない。

ところが一方には、その感情に必要以上に取り入って、ためつすがめつ膨らませて、情緒過多のお腹いっぱい状態を堪能しようとする態度もある。

どちらが好きなのか、の理由について、しばしば考えを巡らす。
つまり、まだはっきりと芸術や芸能がどのように棲み分け、人に働きかけ、何をもたらしているのかを、明確にしようとする必要には差し掛かっていないようなのだ。

今はただ、遠大に広がった地平に膨大な量の「情緒」と「理論の積み上げ」が見えるだけ。そしてそれらの途上で、自分のとどまる位置、守備範囲を日々探ってみるだけだ。


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