エッセイ: 2018年10月アーカイブ

誰かの欲望を叶えるために生き始めると、こちらに向けられる欲求はどんどんとエスカレートする。
体育会系のコーチが、才能のある選手たちに無理なトレーニングを課して、今よりさらによい成果を出させそうと目論むのが具体例だ。
選手たちは、しばしば、彼らの欲望に応えて疲れ果て、故障したり、心を病んだりする。

面白いのだろうと思う。
もっと勉強すれば、あるいは、もっと練習すれば、成果が上がるよ。
もっと良い結果がついてくるよ。
そう励ましながら妄想するのは面白くて楽しいに違いない。
だって、要求する彼らの中に、フィジカルやメンタルの現実の追い込みは起きないのだから。

彼らの妄想の中では、努力していることへの快楽、楽しさしか思い浮かばないのかも知れない。
それらはドラマや劇画の中で、楽しいこととして描かれている。
そのフィクションに悪のりするのは、確かにとても面白い。
問題は、その面白さを自分のために採用するのでは無く、誰かに対して投げるという点だ。

多くの場合、無理な注文をする人々は、現実的な努力をしたことが無い。
自分が誰かに対して望む「努力」という事態の、真実の重さや内容について、確かな具体像、体感を持つことができていない。
知らないから気軽に申しつける。
「もっとこうすれば良いのに」

ひとつことを極めるとき、前提として主体的に選び取ったものである必要がある。
他者から押しつけられたものに対して、人並み外れた努力ができることは稀だ。
好きこそものの上手なれ、という良く言われる次元でも無い。
好きに加えて、生物学的な向き不向きが影響する。
誰かには簡単にできるのに、自分にはできないことがある。
その逆に、他の人々には難しいことらしいが、なぜだか自分には楽にこなすことができることもある。
その、自分が他の人々より楽にこなせることを選び取り、深めて、本当の難しさをとことん知り、さらに飽くことなく時間をかけながら、自然体となるまで身につけていくことこそ、努力だ。

人はひとりずつ違う。
驚くほど。
その違いを、自分と周囲とが見極め、受け容れ、しばしば点検しながら丁寧に歩む以外、良い生き方を選び取る術は無い。

けれど、その体感をすっ飛ばす人々がいる。
見るだけ、空想するだけで、大変さを知ることはない。
そのためか、自分の不快には大層敏感で、耐性も低い。
キレやすく、時に、不快の責任をこちらに押しつけて、言い募る。
いたわりやねぎらいはしなくとも、罵り言葉なら、唖然とするほどスラスラと口から流れ出る。

「なぜお前は、こちらが思うように動かないか?
それは嫌がらせか?
こちらの要求に応えないのは、愛情欠如なんじゃないか?
そんな態度で良いと思ってるのか?
恩知らずか?」

その口からすらすらと流れ出す罵り言葉は、全て、こちらにしなだれかかるほどの甘えでしかないのだが、当人は、こちらを断罪でもしているかのように高揚して、得意げな顔さえする。
その表情は、言葉で痛めつけることで人を支配したい欲望にまみれている。

罵る人が家族にいると、良い人は病み、駆逐されて、家庭そのものが壊滅する。
家族の中にたったひとりでも、無知と甘えとにまみれて、それに気づけない人がいるだけで、家庭は無残に破壊される。
普通に理解力のある人は、自分の心を守るために無口になり、閉じこもって悪口を避けたがるので、事態はさらに悪化し続ける。
戦えば良いと思うだろうか?
テレビのドラマか何かのように、ちゃんと話し合えば良いとか、思うだろうか?

「話し合い」という、フィクショナルなデマゴーグ。
戦いは、同じルールの下でしか成立しないということを知っているだろうか?
同じ言語を話していても、全く言葉の通じない人々がいるということを、誰もが日々、様々な場面で経験している。
それを知らない人だけは、お茶の間ドラマのように予定調和な成り行きを妄想するかも知れない。

良い映画には、その絶望的な困難を丁寧に描いているものが多い。
そして文学も。
つまり、人間とは、これらの困難について考え考えしながら、身を守り、死なないように、そろりそろりと生きている存在なのだ。

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